LOGIN名を呼ばれて顔を上げる。 セドリックは数歩先で足を止めていた。表情はいつものように整っている。だが、その瞳だけが違う。玄関先でも、侯爵家の応接間でも見た、あの痛みを呑み込んだような目。それが今は、もっと濃く、もっと静かに沈んでいる。「君の言葉は聞いた」 低い声だった。「だが、私はまだ終わらせるつもりはない」 胸が強く打つ。 何それ、と言い返したくなる。 終わらせるつもりはない? 誰のために? どうして? 前世では、始まる時ですら手を伸ばさなかったくせに。 けれどそのどれも口にはならなかった。ただ、冷えた怒りだけが形を持つ。「それは、侯爵様のご自由ではございません」 「そうだな」 意外なほどあっさりと彼は言った。「だから、君にも自由に言ってもらう」 その答えが、また意味を持ちすぎていて嫌だった。まるで今まで奪っていたものを返そうとするような言い方。そんなもの、今さら差し出されたって困るだけなのに。 セドリックはそれ以上何も言わず、踵を返した。父と継母が慌てて見送りに続く。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。応接間に残されたのは、火の音と、ひどく張り詰めた沈黙だけだった。 * 扉が閉まってからもしばらく、リリアーナは動けなかった。 立ったまま、ただ暖炉の火を見つめる。橙の火は小さく揺れているのに、部屋の中は少しも温まった気がしない。むしろ、彼がいた時よりも冷えているようだった。 エマがそっと入ってきて、遠慮がちに声をかける。「お嬢様」 「……大丈夫」 そう言ったものの、自分でも大丈夫ではないと分かっていた。膝の裏が薄く震えている。喉は乾いているのに、何も飲み込みたくない。 愛のない結婚は結構です。 あの言葉を自分で口にした感触が、まだ唇の内側に残っている。すっきりしたはずなのに、胸の奥は逆にざわついていた。なぜなら、その言葉を受けたセドリックの顔が、思っていたよりもずっと――傷ついた人間の顔に見えてしまったからだ。 違う。 そうではない、と頭の中で何度も言う。 あれは傷ついた顔ではない。 ただ予想外だっただけ。 あるいは侯爵家当主としての外聞に関わる話だから、不愉快だっただけ。 そう思わなければならない。でなければ、自分の言葉で彼を傷つけたみたいではないか。そしてそんなふうに考え始めたら
低い。掠れてすらいない。けれど、完璧に整えた声音の下で、何かがきしんでいるのが分かる。 リリアーナはそこで笑いそうになった。もちろん楽しくてではない。あまりに遅すぎる問いに、泣きたくなる代わりに笑いが込み上げたのだ。「思っている、ではなく、そう見えるのでしょう」 「……」 「婚約前の今でさえ、このような有様ですもの。婚姻後に変わると期待するほど、わたくしは愚かではありません」 前世の私は愚かだったけれど、と心の中で続ける。 セドリックの視線が、今度ははっきりと痛みを帯びた。その目を見た瞬間、胸の奥の古い傷がずきりと疼く。こんな目をする男ではなかったくせに。何も伝えず、何も示さず、自分だけが耐えればいいと思っていた男のくせに。どうして今さらそんな顔を。 だからこそ、もっと冷たく言わなければならない。「侯爵様」 リリアーナは声を整えた。「わたくしは、名ばかりの婚約や義務の上にある結婚を望んでおりません」 「……」 「必要な敬意だけを与えられ、心は不要とされる暮らしなら、最初から要りません」 「リリアーナ!」 ついに父が強く名を呼んだ。だがもう遅い。言葉は出てしまったし、引っ込めるつもりもない。「お父様、侯爵様ご本人の前です」 「だからこそだ! 何という言い草を」 「本音でございます」 「本音であれば何を言ってもいいわけではない!」 「ならば嘘を申し上げればよろしいのですか」 その返しに、父が言葉を失う。 継母が慌てて取り繕おうと身を乗り出した。「侯爵様、どうかお気を悪くなさらないでくださいませ。この子は少し神経が過敏になっているだけで」 「過敏ではありません」 今度はセドリックが継母を遮った。 静かだが、一切の余地がない声だった。継母がぴたりと黙る。「彼女は、はっきり言っている」 「ですが」 「聞こえている」 その短い応酬だけで、室内の主導権が完全に彼へ移った。 父ですら、すぐには口を挟めない。侯爵家当主という格の差もある。だがそれ以上に、今のセドリックの静けさには、人の言葉を封じる何かがあった。 彼は再びリリアーナを見た。「君がそう望むなら、理由を無視して進める気はない」 「侯爵様」 父の声音に焦りが混じる。そりゃそうだろう。ここで本人が引けば、この縁談は崩れるかもしれない。「娘の未熟な感情でご
その問いに、継母がすぐさま口を挟もうとした。「侯爵様、若い娘の一時の不安で」 「本人に聞いている」 低い声が、継母の言葉を切った。 怒鳴りもしない、顔色も変えない。ただそれだけで、相手の言葉を床へ落とすような声音だった。継母は唇を閉じたが、その表情はこわばったままだった。 リリアーナは、膝の上で手袋越しに指を組んだ。白い革の下で指先が少し冷たい。けれど声は震えなかった。「理由は一つではありません」 「聞こう」 「わたくしは、この婚約が双方の家にとって最善とは思えません」 「双方の家」 セドリックがその言葉を繰り返す。響きに、かすかな違和感が混じった。彼が聞きたいのはそこではないのだと分かる。だがリリアーナはあえてそこから外さなかった。「はい。伯爵家は侯爵家との縁に多くを期待しすぎています。婚姻後、その期待は必ずわたくしを通して侯爵家へ向けられます」 「……」 「一方で、侯爵家にとってはそれが煩わしい負担になるでしょう」 「それは誰の判断だ」 「わたくしの判断です」 セドリックの視線が少しだけ沈んだ。 その反応の意味を考えたくなかった。だからリリアーナは続ける。「加えて、侯爵夫人との相性にも不安がございます」 「リリアーナ!」 今度は継母が悲鳴のように名を呼んだ。だがもう止まらない。止まるつもりもない。「昨日の訪問で十分に理解しました。わたくしはあの屋敷に歓迎されてはおりません」 「そんなことは」 「お母様。わたくしは自分が見聞きしたことを申し上げています」 継母の顔が強張る。父も苦い顔をした。だがセドリックだけは動かなかった。ただ、静かに彼女の言葉を受け止めている。「……それだけか」 しばしの沈黙のあと、彼が言った。 それだけか。 その問いに、胸の奥がざらりと逆立つ。 それだけでは足りない、とでも? もっと本当のことを言えと? あなた自身のことを言えと? だが、そこへ踏み込むのは危険だった。彼が前世と違うのは分かる。けれど、その違いの意味を知るのはまだ怖い。知ってしまえば、また心が揺れる。だから論理だけで押し切るつもりでいたのに、彼はその外側を見ようとしてくる。「十分ではございませんか」 リリアーナは冷たく返した。「婚約解消を願う理由としては」 「私は、君の言
パート2 けれど、階下へ向かう途中で、その期待は別の形で裏切られた。 応接間へ近づくにつれ、屋敷の空気が妙に張っているのが分かったのだ。使用人たちは気配を消すように壁際へ下がり、皆一様に落ち着かない目をしている。侯爵家当主が突然来訪した、それだけでも十分な衝撃なのだろう。だがそれだけではない。誰もが知っているのだ。この数日、伯爵家の中で婚約解消の気配が燻っていたことを。だからこそ、今この来訪が何を意味するかを、漠然とでも感じ取っている。 応接間の前で一度立ち止まる。 扉の向こうからは、会話らしい会話は聞こえなかった。ただ、時折父の低い声と、継母の取り繕ったような柔らかい声音が断片的に漏れる。セドリックの声は、聞こえない。沈黙しているのか、あるいは短くしか答えていないのか。 ノックをしようとした時、ちょうど内側から扉が開いた。出てきたのはマリアンヌだった。頬が少し赤く、目は落ち着かない。「お姉様……」「どうしたの」「お父様が、あなたを」 そこで妹は言葉を切り、唇を噛んだ。怯えている。侯爵家の圧にではなく、この場に流れる大人たちの緊張に。「呼ばれたのね」「ええ」「なら入るわ」 マリアンヌは道を開けた。何か言いたそうだったが、結局何も言わない。あるいは言えないのだ。婚約破棄を口にした姉が、今や家の中でただの姉ではなく、場の均衡を崩す存在になってしまったと、薄々気づいているのかもしれない。 リリアーナは一度だけ息を整え、応接間へ入った。 * 室内は、静かすぎるほど静かだった。 暖炉の火は入っている。薪の弾ける小さな音もする。香りのよい紅茶も運ばれていて、卓上には菓子皿まで整えられていた。見た目だけなら、急な来客を完璧に迎え入れた伯爵家の応接そのものだ。 けれど、その整い方の上に乗っている空気は、まるで薄い氷の板のようだった。 父はソファの端に座り、表情を無理やり平静へ留めている。継母はその隣で笑みを貼りつけているが、指先が膝の上でわずかに強張っていた。対面の一人掛けには、セドリックがいた。 黒の礼装のまま、背筋を一分の狂いもなく伸ばして。 こちらを見た瞬間、彼の顔は動かなかった。少なくとも表面上は。けれど、その瞳だけが、あまりにも静かに、そして深く揺れた。探していたものをようやく見つけた人間のように。安堵しかけて、それを即
婚約破棄の噂は、三日で屋敷じゅうを巡った。 誰かが意図して流したのか、ただ使用人たちの囁きが勝手に膨らんだだけなのか、リリアーナには判別がつかなかった。だが少なくとも、父が書斎で娘と長く話し込んだこと、継母が珍しく昼の茶会を断ったこと、マリアンヌが食堂で妙におとなしかったこと、その三つが揃えば、伯爵家の中で何かが起きたのだと察するには十分だったのだろう。 朝、廊下を歩けば会釈の角度がほんの少し深くなる。 昼、食堂で水差しを持つ手がわずかに慎重になる。 夜、扉の向こうで足音が止まっている気配がする。 露骨な変化ではない。だが、確かにあった。 人は、自分が「ただ従うもの」だと思っていた相手が牙を持っていると知った瞬間、見方を変える。 それを、リリアーナは今、肌で感じていた。 重たい曇り空の午後だった。窓ガラスの向こうで、庭木の枝が低い風に揺れている。春は近いはずなのに、空気はまだ冬を忘れきれない。エマが淹れてくれた紅茶も、少し置けばすぐに表面の熱を失った。 机の上には、これまで書き留めた紙が並んでいる。 ヴァレンティア侯爵邸訪問の記録。 父とのやり取り。 レーヴェン商会。 穀倉担保。 侯爵家に嫁いだあとの実家からの便宜要求。 義母の言葉。 社交界の嘲笑。 前世では、どれもその都度胸を傷つけるだけの出来事だった。だが今は違う。全部が未来を変えるための材料になる。紙の上へ並べられた文字は冷たい。けれど、その冷たさがかえって彼女の気持ちを保たせていた。悲鳴のような感情は、文字にしてしまえば輪郭を持つ。輪郭を持てば、対処ができる。「お嬢様」 エマが小さく呼んだ。「アデル様からの返書は、まだ本日は」 「分かっているわ。そんなにすぐ来るはずないもの」 「……はい」 そう言いながらも、二人とも少しだけ落胆していた。 叔母からの返事が欲しかった。話を聞いてもらえる相手、自分の考えを“気まぐれ”ではなく“意思”として受け止めてくれる相手、その存在が今は何より欲しい。だが手紙は距離を飛び越えてすぐ戻ってくるものではない。 それまでの間に、伯爵家のほうが何かを仕掛けてくる可能性は十分にある。 父は婚約解消を即答しなかった。 だが、前のように頭ごなしに否定もしなかった。 あの沈黙は、怒りでは
父は机の上の書簡へ視線を落とした。濃紺の封蝋。レーヴェン商会だろう。そこへ視線が落ちたこと自体が答えだった。 リリアーナは最後の一歩を踏み込む。「お父様」 「何だ」 「お父様が本当に家を守りたいなら、今見るべきは侯爵家ではなく、机の上のそれです」 その瞬間、父の表情が止まった。 自分でも分かった。今の一言は深く入った。侯爵家という巨大な外の救いではなく、足元の火種を見ろと娘に言われたのだ。誇り高い伯爵にとって、それがどれほど痛いかくらい分かる。だが痛いからこそ効く。 長い沈黙のあと、父は低く言った。「出ていけ」 「お父様」 「今すぐ答えは出さん」 「……」 「だが、話は聞いた。もう出ていけ」 追い払う声だった。けれど拒絶とは少し違う。少なくとも最初のように“下らない我がまま”として切り捨てられてはいない。 リリアーナは深く礼をした。「ありがとうございます」 「礼を言うな」 吐き捨てるような声音。しかしその裏にあるのは、怒りと、焦りと、娘への薄気味悪さだった。 扉へ向かう。手をかける。その前に、背後から低い声が落ちた。「リリアーナ」 「はい」 「……お前は、本当にどこまで見ている」 振り返らずに答える。「お父様が思うより、ずっとでございます」 それだけを残して、リリアーナは書斎を出た。 * 廊下へ出た瞬間、張り詰めていた息がようやく抜けた。膝が少しだけ震える。けれど倒れそうではない。むしろ、体の奥に妙な熱が残っていた。 言った。 最後まで、飲み込まずに。 前世では父にも継母にも、こんなふうに話せなかった。怒られるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、家のために従うのが正しいのだと思い込んでいた。けれど今日、自分の口から出た言葉は、そのどれよりも強かった。 廊下の角で、継母が待っていた。顔色が悪い。唇だけが不自然に赤い。「あなた、何をしたの」 「お話をしただけです」 「何を吹き込んで、旦那様をあんな顔に」 「吹き込んではおりません」 「嘘おっしゃい! あの人があんなふうに黙り込むなんて……」 継母はそこで言葉を切った。つまり、彼女自身も見たことがないのだ。父が娘に気圧されたような沈黙を。 リリアーナは静かに言う。「お母様。わたくしは本気です」 「……」 「
リリアーナは深く礼をした。動作だけなら完璧に近かった。前世で叩き込まれたものだ。皮肉なことに、この屋敷に適応するための所作が、今は彼女を守る殻になっている。「お招きありがとうございます、侯爵夫人」 顔を上げる。義母の目が一瞬、彼女を測るように細くなった。前世でも最初からこうだった。褒める前に値踏みする。親しげな言葉より先に、欠点を探す目。「お噂通り、お綺麗な方ね」 柔らかい声。 けれどその“お噂通り”の中に、すでに本人ではなく評判で捉えている距離がある。人としてではなく、婚約者候補として見ている目だ。「ありがとうございます」 「少し顔色が悪いようだけれど、緊張していらっしゃる
ペン先が紙を擦る音だけが部屋に響く。リリアーナは記憶を短い言葉に変えていった。 義母。継続的な侮辱。人前では善人。二人きりの場を避ける。 書くことで、痛みが少しだけ輪郭を得る。ぼんやりした恐怖より、名前のついた危険のほうがまだ扱える。 次に思い出したのは、実家からの手紙だった。 * 侯爵家へ嫁いで最初の年の冬、伯爵家から届いた手紙には、祝いの言葉とともに小さく追伸が添えられていた。『侯爵様に、東部の鉱山権の件をお口添えいただけないかしら』 追伸は二通目で依頼になり、三通目で催促になり、半年も経つ頃にはほとんど命令になった。『お前は何のために侯爵家へ入った』 『少し
スプーンを持つ。とろりとしたスープが舌にのる。塩気は穏やかで、喉を通る熱がやさしい。前世の終わりには、食べることすら義務になっていた時期があった。味がしない日も多かった。だから、今こうして素直に「温かい」と思えることが、少しだけ救いになる。「午後の衣装係には、頭痛とお伝えしておきました」 「ありがとう。お母様は?」 「少々ご不満のご様子でしたが、侯爵様が急においでになったことで、お疲れになったのだろうと……」 「そう」 継母にとっても、侯爵本人の予期せぬ来訪は予定外だったのだろう。ならば好都合だ。その揺れを使えるかもしれない。 リリアーナはスプーンを置き、エマを見た。「エマ、
部屋へ戻ってから、リリアーナは窓際に立ち尽くしていた。 外では風が少し強くなってきて、庭の若木が枝先を揺らしている。白い洗濯布がはためく音が、遠くで乾いた鳥の羽音と重なった。日差しは明るいのに、胸の中は晴れない。むしろ、時間が近づくほど息苦しさが増していく。 侯爵本人が来るかもしれない。 その事実が、想像以上に彼女を乱していた。 会いたくない。見たくない。声を聞いたら、きっと前世の記憶が一気に押し寄せる。 けれど、会わなければ何も分からない気もした。彼が本当に前世と同じなのか、それとも違うのか。最後に見た涙が、ただの死に際の錯覚ではなかったのか。 なぜ知りたいのだろう。 知っ







